コーチングでは様々な用語が使われます。そうした用語を使うことで、便利になるのですが、時代によってコーチング用語も意味をなさなくなることもあります。
用語を覚えたら終わり、ではなくて、その意味を深く理解し、使えなくなったり時代遅れになったものはなくしたり、更新していく必要があるのです。
コーチをはじめ、コーチングを学んでいる方々も、コーチングの用語を盲目的に使うだけではなく、意味を考えながら、有効に使いましょう。
意味がなくなったコーチングの用語
コーチング界隈で、よく「ノットノーマルになりましょう」というようなことがいわれています。これは、昔ルータイスというコーチングの元祖という方が言っていたことのようです。
ルータイスの時代には、ノットノーマルという言葉は意味のある言葉だったと思います。その時代には、優れた考え方だったのでしょう。
しかし、今はもう必要のない言葉になりました。いまだにノットノーマルというような人がもしいたら、正直なところ時代遅れになります。
簡単に言えば、ノーマルと、ノットノーマルという対立が意味を持ったのは、ノーマルというものが信じられていたからです。
確かにいまだに、普通とかノーマルといった考え方が日本では信じられています。ただ、世界を見れば、普通なんてものがなく、同じ国の中でも、人種も民族も文化も宗教も違うという感じです。
ノットノーマルに対する、ノーマルというものがないのですから、ノットノーマルという言葉は、もう意味をなさなくなっています。
時代によってコーチングの用語も変わる
近代的な、大量生産大量消費の時代においては、ノーマルのような画一的な基準を想定することができました。例えば、学校に入って、会社に入るのがノーマル、みたいな図式を考えることができたのです。みんなが同じようなライフスタイルで、同じテレビを見て、同じ消費をするという幻想です。
その中では、長髪で革パンを履いたら「不良」で、「ノットノーマルだ!」という二項対立を考えることができました。「お勉強もできて、ロックンロール」みたいな、単純な、対立図式で考えることができた、牧歌的な時代です。
もっとも、こうした対立の中で生きている人たちというのは、大きな枠組みで見れば、同じ世界に生きていると言えます。なぜなら、ノーマルがなければ、ノットノーマルは存在しないからで、これらは、2つで一つの世界を作っているからです。
それゆえに、ノットノーマルという人に限って、ルイヴィトンを買い漁るというようなバブル的なトレンディーな現象が起きてしまいます。結局は、近代的な、画一的な価値観の中に生きているので、そうなるのです。これは意外なようでいて、当然の成り行きと言えます。
コーチングも二項対立では考えられない
現代では、そうした二項対立がなくなってしまったのです。価値観も、働き方も多様になり、同一の基準で比較することができなくなりました。ノーマルがなくなった時代で、ノットノーマルと叫んでも、虚しく響くだけなのです。
ノットノーマルという言葉がなぜ今更、新しい概念のようにして出てきたのかは大変疑問ですが、これは、局地的な、一過性のブームで終わります。もう、テレビを見ない若い世代には、認識すらできない概念になるでしょう。いわゆる「死語」です。
意味があるとしたら、テレビが力を持っていた、古い時代の価値観にいまだに洗脳されている人たちに対してです。そうした人たちに対しては、ノットノーマルと言うことで、画一的な価値観から抜け出すことができるかもしれません。
しかし、どのみち視点を上げて、対立図式から脱しない限りは、より大きな枠組みが変わるわけではないのです。