コーチングとエビデンス
コーチングは、科学的でしょうか。最近では、エビデンスベーストが大事と、よく言われています。
例えば、医療の臨床で、エビデンス・ベースト・メディスンといって、根拠のあるデータに基づいた治療をする、ということがあります。
臨床心理でも、エビデンス・ベーストの潮流があります。
もちろん、コーチングにも一部そうした流れがあります。では、コーチングはエビデンス・ベーストにすべきか、または、エビデンス・ベーストでなければ意味がないでしょうか。
エビデンスの限界
私が行っているコーチングは、認知科学の理論に基づいたものです。つまり、科学的なコーチングです。
しかし、エビデンス・ベーストではありません。コーチングを受けた人のランダム化二重盲検のデータがあるわけではないのです。
なので、それを元にコーチングを批判する人もいます。それは、批判として意味のあることではあると思います。
実際、私自身も、信頼性の高いエビデンスがあるワークをやってもらったりすることもあります。ただ、エビデンスがない手法を使ったり、エビデンスがないワークをやってもらうこともよくあります。
それはなぜかというと、エビデンスに基づいたものしかできないとなると、コーチングは、極めて限られたことしかできないからです。
もっと言うと、エビデンスがあることよりも優れたことをやっているので、エビデンスを求めていると遅くなってしまいます。
どちらも良いことだと思うので、どちらも排除しない、ということです。
それは、「整体」のことを考えてもらえば、わかると思います。
例えば、現代の医学は、肩こりを治すことはできません。治せるのは、整体やあん摩だったり、体操だったりします。医学で肩こりを直そうとすると、筋弛緩剤を飲んだりするだけです。
しかし、それは症状を緩和するだけであって、根本を治せるわけではありません。ただ、肩が痛いから、注射を打つとか、湿布を貼るとか、その程度の話です。
医学は、膨大なエビデンスに基づいた、まさにエビデンス・ベーストの治療です。もちろん非常に強力なものです。抗生物質や、ワクチンで、ほとんどの病気を押さえ込んでいます。
ところが、腰痛一つも治せないお粗末なものでもあります。
また、ウィルスや、細菌を殺すのと違って、症状を緩和するのは、治すわけではありません。
しかし、整体に行くと、肩こりや腰痛を治すことができます。もちろん、治せない人もいますが、腕の良い人は、治すことができるのです。
それ以外にも、医療では治せない病気や不調を治せる人はたくさんいます。
それで、整体は、エビデンス・ベーストでしょうか?整体は、いわゆるエビデンス・ベースト、信頼性の高いデータがあるわけではないのです。
整体は、長いあいだの経験論に基づいた身体理論から、施術をしているだけなのです。なので、医学的な療法を学んだから腰痛を治せているわけではありません。
データがないからといって、それが意味がないかというと、ちゃんと機能しているわけです。
エビデンス・ベーストで肩こりが治せるようになるのは、100年後かもしれません。それはわかりませんが、整体の方がはるかに優秀で、先を行っていることは間違いありません。何とか医大教授より、近所の整体師の方がすごい分野なわけです。
私は催眠術をやりますが、催眠術を使って、治癒力を高めたり、病気自体をなくしたりすることができます。これもデータはありません。ただ実際にそうなる、というだけなのです。
それと同じように、コーチングについても、人が成長したり、目標が達成したりします。コーチングは人生を変える強力なツールです。
真面目な人の落とし穴
エビデンスがあることは、大事なことだと思います。エビデンスを積み上げていくことで、再現性の高いことができるからです。なので、データを取っていくこと自体は良いことだと思います。
ただ、真面目な人は、エビデンスがないことを取り上げて、そうしたことを批判したりします。
しかし、エビデンス・ベーストの範囲内でやろうとすると、肩こりも腰痛も治せないし、今のコーチングでできていることもできません。
これは、真面目な人が陥ってしまう陥穽の一つなのです。
真面目な人は、データが取れたパーツを、積み上げることで何かができる、という考えになってしまいます。それは正しいですが、間違ってもいるのです。
データが取れた範囲で何かができるだけであって、何でもできるわけではありません。
そうした人は、データが取れていない範囲の外に出ることに、恐怖や不安を感じます。なので、エビデンスなしでやっていることを見ると、怒るわけです。
それは、自分の真面目な領域が脅かされてしまうからです。
コーチングも、科学的なのは、間違いありません。しかし、真面目な人は、その理論の枠の外に出ることができません。
なので、少しでも外れると、ものすごく感情的になって批判したりします。
結局それは、権威性に頼っているだけだったり、自分の安心材料になっているだけだからなのかもしれません。
コーチングで大事なのは、それで、どうなるんですか?ということです。科学だからとか、データがあるから、というのは、一部でしかありません。
科学に則っていても、それで成長しなかったら意味がないわけです。ビジネスで成功したいのに、成功できないなら、科学じゃなくて、宗教の方がいい、と思う人もいるでしょう。
みんなができないことに価値が有る
今後は、エビデンス・ベーストのコーチングも広まってくると思います。そうなると、エビデンスがあるとか、ないとか、が今よりもっと言われるようになるでしょう。
私は、エビデンスがあるのも、ないのも、どちらも同じ視点で見ています。なので、使えるものは使う、という感じになるでしょう。
そして、どちらかというと、エビデンスがないもの方に、価値がある、と考えています。
今のコーチングの理論は、かなり進んでいます。それは、データの積み上げで簡単に追いつけるようなものではありません。
半分オカルトとかSFみたいなことなので、何十年か経っても、多分無理だと思います。
そうした世界がわかるようになると、できることが増えていきます。
宇宙のほとんどのことは、まだ科学の「理論」でも、説明できてないのです。未発見のこともたくさんあります。世の中で行なわれていることも、ほとんどデータがあることではありません。
データによって再現性があるということは、ロボットができる可能性が高いです。なので、単価は下がるでしょう。
みんなができるようなことは、相対的に価値が低くなるのです。
みんなができない、考えもつかないようなことだから、価値は高くなります。それはどちらも、それぞれで「アリ」な世界です。
どちらを選んでもそれは構いません。ただ、エビデンス・ベーストが正義だと思っていたら、とんでもない勘違いなのです。